12/2「ポピュリズムとイノベーション」について考える
11月の立命館大学土曜公開講座は「ポピュリズムと現代政治」シリーズであった。大変な人気で毎土曜日、それぞれ、300人を越える人たちが参加していた。 技術の世界で長く生きてきた私には興味駸々本当に多くのことを学び、考えさせられた。 科学・技術(S&T Science & Technology)の大変革の中で変貌する近代国家をまとめていく政治についてのお話であった。ヨーロッパやアメリカなどの歴史と複雑な背景をわかりやすくお話をいただいた。私は、興味駸々、学生に戻ったような気持ちでそれに聞き入った。ポピュリズムを消極的と積極的と背反する2面的な意味で捉え、「大衆迎合主義」、「衆愚政治」、「扇動政治」「反知性主義」などといろいろな定義のもとに議論が展開された。イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、など先進国を筆頭に日本においても、その流れは起きていることは周知のとおりである。 私なりの理解を一言で書いてみると “科学技術の革命がもたらした社会変革のなかで、それを享受する大衆の意識に大きな変化がでてきた、そして、この大衆を支持層として政治を行っていこうとする新しい政治家がでてきたと”ということになるように思う。 この「大衆」は、変革する社会をリードする側には立てない、すなはち、受け身側に立つ労働者(反知性階級)であり、国民における人口比率が高くなってきたために、政治家がこの人たちをまとめて支持層とするようになったと理解するとわかりやすいのではないだろうか。 一方、イノベーションは人類の進歩、すなはち、人類の文明の発達の源泉であると考える人たちにとっては、この新しい大衆と向き合って対立をしなければならなくなるという状況が生まれてきたということになるのでは。この状況が今のアメリカなのかもしれない。 いま、私は「起業工学」シリーズの第3巻として「ディープ・イノベーション:人類の新しい地平」という新刊書を出版するにあたって、“The Politics of Innovation- Why Some Countries Are Better Than Others in Science and Technology” という書籍を参照している。 その著者である Mark Z. Taylorは、一国の繁栄のためには、大変現実的なイノベーションが絶対的に必要であり、それは、”Creative Insecurity” ~創造的不確実性~に向けたイノベーションであると指摘している。軍事的、そして、経済的な理由で、国にはS&Tにおけるリーダーシップへの道へ向かうことが常に要求される。そして、この過程の一部として、”Clustering” や”Networking” という国家間の繋がりや役割が、国家の使命として重点的な課題となり、戦略となっていくものだと指摘している。 この考え方は上に述べたポピュリズム(大衆主義・反知性主義)とは真っ向から対立するもので、今、アメリカでは社会分断として大議論をよんでいる。日本においても、“ポピュリズムとイノベーション”というあい矛盾する二つの課題に真剣に向き合っていくことが、いま、求められるのではないだろうか。大学の果たす役割が大きい。